遠い昔に覚えた歌が、突然脳裏に浮かんできた。それは強烈な印象と不明瞭さが同居するデジャビュのような感覚で、日々の無数の雑念とは少し違う質感を持ってやって来た。その歌への理解もままならないなかで、ただその音だけが何度も繰り返し頭のなかに響いた。
『色は匂えど散りぬるを わか世誰ぞ常ならむ 有為の奥山今日こえて 浅き夢みじ酔ひもせず』
日本を離れていた時期に自分が抱いた望郷の念は、いつしか「日本人的感性とはなにか」という疑問と関心にかたちを変え、それから今までの約十年間、それは日々の色々な瞬間にこの世界の風景を眺めるための一つの大事なフィルターとなってきた。ひとつの区切りを知らせるチャイムのように流れてきたこの「いろは歌」が、見落としていた大切なことを伝えてくれるようだった。
『匂うがごとく花は咲き誇るけれども、すべて散ってしまうものではないか。このわれわれの世界において、いったい何が、誰が常であろうか。常なるものは何ひとつない。だから私は、無常なこの世を奥山の方へこえて行こう。こちら側の世で浅い夢なんか見ていないで、酔っ払ってなんかいないで──。』
『(この歌が)つねに意識的に歌われてきたわけではないでしょうが、しかし、これだけ長く歌い継がれてきたということの背景には、われわれ日本人の意識の底に、そうした発想が親しいものとして存在し続けてきたということが示されている』
(『「はかなさ」と日本人』竹内整一)
日本人の誰しもが一度は覚えるこの歌こそが、日本人の「意識の底」となっていて、自分のなかに溜め込んできた「日本らしさ」という風景にも、ここで歌われている感覚が確かに通奏低音のごとく響いていた。
「いろは歌」を細かくどのように解釈するかは人それぞれであり、それは依然として美しい日本語の多様性と奥深さを示すための最良のテキストという存在でもある。ただ人が持っている感性の根元には、この歌のように予め組み込まれているものが多分にあり、そこにはひとりの人間には抗うことが出来ない大きな力が作用している。ひと一人が紡ぎ出す「小さな物語」を拾い集めることに奔走するこの時代に、その背後にある「大きな物語」への眼差しを持ち、自分の「意識の底」深い場所に眠るものを拾い上げ、〝既知との遭遇〟を果たすことが、「浅い夢」からの心地よい目覚めにつながっていく筈だ。