小屋を建てたいと思う。小さな小屋。レオナルド・ダヴィンチが描いた『ウィトルウィウス的人体図』の、人体が描く正円と正方形が幾許(いくばく)か拡張されたような空間。それは千利休がつくった二畳の広さの茶室『待庵』を訪れたときに感じた、狭苦しさとは無縁の、大宇宙(マクロコスモス)的空間の存在に思いを馳せることでもある。
『極めて狭小、簡素の茶室は、かへって無辺の広さと無限の優麗とを宿してをります。』
(『美しい日本の私』川端康成)
建築家ル・コルビジェは自らの両親のためにレマン湖畔に『小さな家』を建て、また自らの養成地カップ・マルタンでの住処として、わずか八帖ほどの小屋を建てた。
『 四方八方に蔓延する景色というものは圧倒的で、焦点をかき、長い間にはかえって退屈なものになってしまう。このような状況では、もはや〝私たち〟は風景を〝眺める〟ことができないのではなかろうか。景色を望むには、むしろそれを限定しなければならない。 』
(『小さな家』ル・コルビジェ)
「風景を眺める」ために、目の前に広がる雄大な景色を建築によって「限定」する。それと同じようにして彼は空間が孕む人の無限の〝動き〟に対し、空間そのものを強度に限定した。そして動きの先にあるべき機能を細心の注意を払いながら周到に配置し、その設計がつくりだす〝道筋〟は生活動線を最小限に抑えていく。そこに住まう人々の一挙一動は日々を追うごとに純化され、知らぬ間に日常のなかに蓄積された「焦点を欠いた、退屈な」動きが削ぎ落とされていく。それは全て鋭い身体感覚を獲得し、あらゆる動きと拮抗する〝静けさ〟の存在を望むためなのだ。静けさ、つまりはただ「立つ」ことが、極めて繊細な所作だということの発見である。
『立った人間の前後左右上下といったあらゆる方向から目に見えない力で無限に引っぱられていてその力の均衡の中に立つ――。これがカマエである。逆にいえば、前後左右上下に無限に気魄を発して立つ、ということである。』
(『能の表現』増田正造)
微かな身の震いに深遠な情の動きを表現する能舞台における演者の立ち姿は美しい。それは空間を纏った佇まいであり、その生命の不動の躍動は観る者を揺さぶる。動きの果てに見出す静けさという〝空っぽ〟の舞台で、そこに立ちすくむその身体は、無限に連なる空間の起点となっている。そして力の「均衡」によって得た浮力が、自分だけの大宇宙へとこの身を運んでいく。身に纏うような空間、そんな小屋を建てたいと思う。