ボストンからグレイハウンドバスに揺られ到着した、十二月の良く晴れた早朝のニューヨーク。バスを降りたその足で、(イサム)ノグチ美術館へと向かう。ガランとした朝一番の館内をゆったり歩いていると、数体の大きな石の彫刻が凛と佇む、ピロティのような場所に辿り着く。外からは冷たい空気が流れ込み、壁の切り込みから差し込む陽光は、細く縦に伸びた石の球体の滑らかな表面に、一筋の光を当てていた。思わずその場所へ手を置くと、動物の肌のように親密な暖かさと、手の下で何かが蠢くようなざわつきがあった。球体の裏側へ手を滑らすと、深い井戸の暗闇のように、物静かな冷ややかさが身体の奥にまで伝わってくる。それは「大きな石」であると同時に、全く別物の何かだった。そこに見えてくるのは、石と人間が、無数の対話を経て見つけ出した地平から、同じ風景を眺めるふたりの後ろ姿だった。
建築家ピーター・ズントー(ツムトア)は自らが敬愛するヨーゼフ・ボイスやポーヴェラ派のアーティストについて次にように記している。
『とりわけ感銘を受けるのは、彼らの芸術作品において、素材が的確かつ感覚的に用いられている点だ。その使用法は人類による素材の利用についての古来の知識に根ざしつつ、同時に、文化的に付与された意味を超えた、素材そのものの本質を顕現させている』
(『建築を考える』ピーター・ツムトア)
「芸術」という行為より遙か昔に存在していた素材と向き合い、突き動かされるようにして、ヒトはその手を動かし始めた。錬金術師のような人々が、素材の秘める可能性に思いを馳せて、人間の想像し得ること全てを目指し、その手の中にある一番の現実(素材)を握りしめながら、永遠の夢に生きた。その副産物が「技術」であり、それに付随する「意味」だった。いまや、意味により軟禁された素材を解放するには、意味が生まれる以前の生々しくも真摯な目線によって、『素材そのものの本質』を浮かび上がらせるしかない。そして「意味を超えた在り方」を獲得した両者(人間と素材)は、この世界を新たに見渡す為の場所を見つける。その目の前に広がる斯くも自由な風景のなかで、永遠の夢は、いつも変わらぬ輝きを放ち続ける。