写真とコミュニケーション
佐内正史「写真の筧さん」展に寄せて
#text, #Masafumi Sanai, #photography
写真はコミュニケーションの道具ではない。携帯電話で撮る写真は「イメージ」であり、それは確かにコミュニケーションを促進し、日々人をつなげたり、引き離したりしている。では佐内が撮る「曖昧な」写真、そして今回のようなポートレート写真とは何か。
ポートレート写真を見たときに感じる、ある種の「気恥ずかしさ」は、被写体と写真家が結んだ関係性を、その写真を見る側が一時的に引き受けなくてはならないことから生じる。それは唐突に配役を決められ、舞台の上に立たされるようなものだ。けれど今回の「写真の筧さん」の写真には、そういった居心地の悪さを感じることはない。
縁側で寝そべり、水平線を背景にこちらを見つめ、野に立つ姿。そこに写る「筧さん」とは、「筧 美和子」のことではなく、写真のなかに(のみ)いる、その人のことなのではないだろうか。本人すらもう届かない場所に、さまざまなことから切り離された存在として、写真というなかに繋ぎとめられることさえなく、漂っている。そこでは既に被写体ー写真家という関係性は立ち消えてしまっている。
だからその写真を見ようとする僕らは、その漂っている存在に声をかけて、少しのあいだ立ち止まってもらわなくてはいけない。そこで新たな関係性をつくるには、「自分」としてその写真に立ち会うことを必要とされる。そしてその自分を意識するときに、「どのような自分でありたいか」ということも刹那によぎる。そこにドキリとする、ハッとする。
人は他者とのコミュニケーションを通じて、自分という存在を肉付けしていく。ひとりでのコミュニケーションは実現しえない。ここに並ぶ写真はコミュニケーションの道具ではなく、コミュニケーション「そのもの」であると言いたい。常に揺れ動く、曖昧な自分という存在に、呼びかけてくるものとして。