池田扶美代「ワークショップ&ショーケース」インタビュー

ベルギーのダンスカンパニーRosasの創立メンバーのひとりであり、現在もダンサーとして活動する池田扶美代さんを講師としてお招きし、「ワークショップ&ショーケース」を行います。池田さんの創作に対する姿勢を語って頂くために、国内での創作時にヴィジュアルを担当してきたそめやふにむさんをお迎えし、今回の企画に対する思いをお聞きしました。

 

インタビュー:そめや ふにむ

【今回の企画について】

 

今回の企画のテーマであるPowerlessness(無力)について教えてください。

ずっと私が意識をしている「失う」というテーマの一角です。無力という言葉を聞くとすぐに政治的権力や戦争、人種差別や理不尽なこと、それらに対して何もできないことなどを思いがちですが、自然に対しても我々は無力であるし、あとは人間関係、自分自身、死と愛…。そういう意味でPowerlessnessを大きく4つに分けて考えてみようと思います。

「私とあなた Me and you」

「私と社会 Me and society」

「私と自然 Me and nature」

「私と死・愛 Me and love/death」

今回のヴィジュアルになっている女の子の写真が気になっているのですが、なぜこの写真を選んだのでしょう。

 

写真は幼い頃の娘です。彼女はどう思いついたのか、まぶたが動く人形の目を砂で洗ってしまったのね。そうしたら人形の目が閉じなくなってしまった。夜一緒に寝られないと困った娘が粘土を目につけてあげて、「これで一緒に寝られるね~よかったね~」と言っているところを撮りました。残酷さと可愛さは紙一重ですね。

 

見守る側としてはなんとも言えない気持ちになる出来事ですね。「そんなかわいそうなことしたら駄目でしょう」って叱ることもできるだろうけど、娘さんは娘さんでちゃんと考えを持って行動しているし。

 

あはは。

 

© Fumiyo Ikeda 

 

今回の企画について、14名の参加者が集まりましたが、複数人で作品を作るということは池田さんにとってどんなことですか。
 
人数分だけの意見やエネルギーや経験や人生があるということ。
 
複数人でひとつの作品をつくる時に意識することは?
 
相手をよく観察すること。複数人でしか出せないボリュームを意識すること。
 

複数人で舞台に立つことについてもお聞きします。池田さんはこれまでRosasではもちろん、ソロ作品でも様々なアーティストと作品を作ってこられたと思います。複数人のダンサーと舞台を共にすると、自分の手では負えないようなことがたくさん起きますよね。それぞれのコンディションがあるし、ミスもラッキーなアクシデントも起こる。『Nine Finger[1]』の再演時、池田さんはこのようなことをブログに残しています。

 

『ステーンの目を見つめる。その2~3秒の間に、色んな事を訴えて来る。その瞬間が好きだ。彼が辛そうな時も分かる様になって来た。分かるから私も辛い。切ない。一緒に舞台に立っているのに一人ぼっちである。でもちゃんと二人一緒になれる時もある。』[2]

 

共演した相手から、なにか学ぶことはありますか。
 

私にとって共演とはシーソーゲームみたいなものです。特に『Nine Finger』という作品では少年兵という社会問題を扱いましたが、私と共演者は二人とも同時に主人公のアグウだったり、時にはストリッカという少年兵だったり、彼がアグウで私がストリッカだったり、隊長とアグウであったり、レイプされた女の子だったり、娼婦であったり精神科医であったり……色々なシチュエーションや役柄に自分自身を秒単位でスワップして演じなくてはいけなかった。だからこの作品の場合はお互いの影になったり光になったり…。


Play together、これが大切ですね。自分のことだけを考えない。当たり前のことですけど。学ぶことは確かに多いですが、それがどんなことだったかはすぐに思い出せないです。何を学んだとか答えを出すことに興味がない。あとすぐに忘れます。忘れるようにしています。
 
学んでもすぐに忘れる努力をするんですね。では仕事においての師や、重要な人物などはいない?
 
忘れる努力というより溜めない、執着しない。仕事の師匠はいないです。いるとしたら仲間かな。どんなことを学んだかとか、過去の分析はしていません。仕事仲間からどんな風に何かを学んだかなんて考えていないです。しかし彼らへのリスペクトは大切。そして、こう学んだとか結論をつけないこと。

 © Hirohisa Koike 

 

結論づけないことを意識するのはどうしてでしょうか。
 
私の仕事は、絵画や映画、録音された音楽のように結果/結論として残りません。その代わり、翌日舞台があるときはリプロデュースしなくちゃいけない。どんなに素晴らしい出来でも翌日同じように素晴らしいかはわかりません。なので、結果/結論にこだわらず、特に良い出来の日はどんなに褒められても忘れることにしています。一番大切なのは過程であり、通過点が見えたら次に進むだけ。結果が評価される絵画や映画、録音された音楽などとは結果論、結果感覚が違うと思うなあ。私は残らない仕事をしている。

そめやさんがやっている絵を描くことは、目に見えるものとして残すものじゃない?まだ途中経過だと思っていても、それすら残ってしまうものでしょ。私の場合は、自分ではまだまだだと思っていても、その「まだまだ」も「できた!」も残らない。
 
それに、同じ場所にいても全てを見ることはできないですよね。人によっては見逃してしまうこともあるし、気づかないまま終わってしまうこともある。巻き戻すこともできない。
 
同じ日に同じものを見ても同じようには感じないし。ああでも、これは絶対見て欲しいということ…例えばこれをやるとするじゃない(左手をこぶしにして顔の横まで持ち上げ、つぎに小指だけを伸ばし、手首をくるくる回す)。多分その場にいるお客さん全員に見てもらいたいという意識でやっているときは、全員に見えていると思う。でも舞台上でいろんなことが起こっていて、その全てを見てもらいたいという場合は私の意識がいろんなところに散漫しているので、お客さんは私の顔とか下半身だけとか、あとは全然別のこと、自分の想像で頭がいっぱいになっていたりすると思う。
 

2015年の『クロスグリップ[3]』のパンフレットでは、真ん中に人の像があって、そこに粒状のものがわーっと集まったり離散したりするイメージで描きましたが、池田さんの身体って本当にそういう風に見える時があるんです。細かいなにかがひとのかたちにぎゅっと集合して動き始めたと思ったら、次の瞬間には空間に霧散してしまう。それは今の話の、意識のボリュームのコントロールが表現として身体に出ているからなのかもしれません。
 

自分の集中をどうやって相手に渡そう、とか散漫させるとかということを役者として意識できた時点で、役者が漂流している空間そのものが変わるはずだからね。意識のボリュームはとても大切です。

 ©Funimu Someya

 

『in pieces[4]』では、「私の好きなこと」、「理解できないこと」、「言いたくないこと」といった事柄をカウントしながら話すシーンが多くあります。「1, Something I like」、「2, Something I can’t understand」、「3, Something I can’t talk about」…といった感じで。カウントが進むにつれてその台詞はどんどん長く、描写としてはより細かいものになっていきますね。「卒業式の思い出」、「誰かは私のことおかしいって思ってるってこと、私は知ってる」とか……。また、「Yes」をいくつかのヴァリエーションで言ってみたり、客席に指をさして問いかけてみたりもしますよね。
 
しかも、パートごとで使われる言語が異なる。例えば最初は日本語で言っているんだけど、中盤はオランダ語で、後半は英語で話している。しかも、上演する国によってどのパートをどの言語で言うのか変更していたと聞きました。つまり、鑑賞者にとっては知っている言語で台詞を聞くパートと知らない言語で聞くパートがあって、後者では「意味は分からないんだけど、泣きわめいたり笑い転げながらなにか言ってる」池田さんに居合わせることになる。
 
知っている言語でのパートでは台詞の内容につられて目の前のダンスを見逃していく感じがあるし、知らない言語で聞く台詞は内容の意味をなくしたまま身振りだけ残してダンスになっていく感じがしました。
そこでお聞きしたいのですが、芝居はダンスに含まれますか?

 

含まれる。その逆もあり。
 
感情と踊りの関係をどのように考えていますか。
 
感情とは一つの感情だけではないこと、とても流動的なこと。踊りとの関係性についてはあまり興味がないです。あるとしたら、同じ感情も踊りも繰り返せないことくらいかしら。
 同じ振りを何度も何年間も踊ることは可能です。でも同じ振りを同じように踊ることは不可能。私はロボットではないし、適当で曖昧で気まぐれです。人から見て100%同じに見えても私の中では全く同じではないし、同じ状況・条件ではないからね。同じ振りを再び踊る時は、その前に踊った自分を忘れて新たに踊る。リセットし続けます。
 
リセットする、忘れることに恐怖はない?
 
恐怖はないです。だから多分、周りの人に迷惑をかけてるかもね。
 
小テーマ「私と死・愛 Me and love/death」にも出てくる「死」についてはどうでしょう。
 
死は受け入れるもの。
 
受け入れるという言葉が出てきたので聞いてみたいのですが、記憶はどうですか。受け入れる、というよりも意識/無意識のように自覚的であったり、見逃してしまったりするものかしら。
 
記憶は思い出さないと「記憶」とは呼べません。意識しないと存在を認めてあげられない。無意識に行っている身体の記憶は「習慣」になると思う。私達が日常的に無意識にやっていることは全体の98%です。私は金属アレルギーとか着色料、添加物アレルギー持ちなので、意識的にも無意識的にもアレルギー体質を受け入れないと共存できないのに似てるかな(笑)。
 
「無意識に行っている身体の記憶」ってどんなものでしょう?池田さんのダンスと「習慣」はとても密接に関わっているように見えます。
 
自分の部屋なら真っ暗でもぶつからずに歩けたり、電気のスイッチがどこにあるか見つけることが出来るでしょ。そういう習慣から学んだ記憶。ホテルなんかだと初日は絶対に無理だもの。どっちの足からパンツを履くかとか靴下を履くかとか、どの足から階段を上がるかとか、意識して生活してみると面白いですよ。振りを創る時は出来るだけそういう習慣を壊す方法で動きを創るように心がけています。

 ©Hirohisa Koike 

 

答えや理由が見つからないまま、踊ることはありますか。
 
答えなんか見つからないまま踊っているし、生きています。例えば「ダンスとは何ですか」とか「今までで一番好きな作品は」とか「美とは何ですか」とか、「何をどう学びましたか」とか「〇〇の感想は」とか…よく質問されますね~。
 

人にも答えは求めない?
 

もちろん、他人にも答えは求めません。人の意見から答えを見つけることより自分に問い続けることの方が大切です。たとえ答えがなくても、答えが返ってこなくても。答えがあるとしたら、それはある種の決め事。それじゃ今日は…1+1=2にしておきましょう…みたいな感じです。答えを求める時ももちろんありますよ。でも自分のなかで断言しないというのかな、ひとつの答えに執着しないようにする。自分の作品を創る姿勢にしろ生き方にしろ、私にはその考え方が合ってるんだと思います。「なんか調子悪いな」って時は答えを探しすぎていたり、答えがないのに答えを無理に探そうとしちゃってる時。自分や人に質問することはとても大切なことだけど、ひとつひとつの質問に答えを出そうとすると前に進めなくなるので…これも生きることと作品を創ること両方に通じて言えますが、どんな時も行動に移している方がずっといい。悩んでも結局答えは出ないし、だらだら考えることをやっちゃうと、考えてるふりを始めちゃうから。

 

 

【今回のショーイングについて】

 

国内でのWSではショーイングの機会を設けることが多くあったように思います。人前で踊るという機会を意識的に設けているのでしょうか。
 
はい。音楽やダンス、演劇は遠い昔から人前で演じることで人々とコミュニケーションを取ってきました。創り上げてきたものや意識してきたものを壊す・無防備になると言う意味で大切だと思います。…そめやさんの場合、作品を展示したらずっとその前にいるというわけではないの?お客さんがいる間はずっといる?
 

人によりますが、私は毎日在廊するタイプではないです。そうか。池田さんとお客さんが出会う場所にダンスはあって、そこに居合わせなければお互いに出会えないんですね。
 
そうそう。私は映画にも出演した経験があるのだけど、映画の初上映の時ってお客さんを招待して舞台挨拶もあって、劇場の初演に近い状況なんです。でもただ1つ違うのが、手直しできないこと。それって、絵も同じじゃない?録音した音楽もそう。1回の発表でドキドキすることや産みの辛さは一緒なんだろうけど、「完成しました!」っていうのがあるでしょう。さっきの結果感覚と被るけど、舞台芸術には「完成しました!」がない。ゲネは良かったけど、緊張しすぎて初演がダメだった、とか。逆に初演は良かったのに、気を抜いたり打ち上げで飲みすぎちゃったりで2日目が全然ダメとかもある。ローザスの場合は1作品年間100回公演とかが普通なので、モチベーションの維持、身体のメンテナンスなどの条件も加わります。
自分ではひどいと思っていたのにお客さんが喜んでくれていて、それが変に嬉しかったりね。逆に自分はすごく良かったと思っていたのにお客さんにはボロクソ言われたり(笑)。だから、「昨日ウケたジョークをもう一回やろう」とか「ああいう感じでもう一度踊ろう」とか、何が良かった/どうして良かったとかはあまり考えない方がいい。考えなくても身体に残ってしまうから。毎回リフレッシュしてリセットしていかないとやっていけない感じがしています。
 

そういう意味ではアフタートークってどうですか?今回ショーイング後にアフタートークを予定していますが、観に来てくれた人と話す機会ってありますよね。ショーイングすることが第一のコミュニケーションだとしたら、第二のコミュニケーションの場が持たれるように思うのですが。
 
何度も踊っている作品についてアフタートークする場合はまったく平気です。でも初演すぐの作品の場合は、踊ったものを言葉として表すには自分自身が未熟すぎることがある。できたばかりのものは語れることが少ないから非常に難しいです。いただいた感想によって客観視できるから良い場合もあれば、散々なことを言われて辛いこともある。でも、話題に挙がったような「記憶」とか「忘れる」とか、「私だけの問題だけど、みんなも一緒に考えられること」ってあるでしょ。そういうテーマがあれば盛り上がることはできるよね。動きとかダンスのテク二カルな問題ってやっている人には面白いかもしれないけど、私の作品を観に来てくれるお客さんはダンサーだけじゃないので。
 
テーマについても、私が考えたことをみんなに考えて欲しいとは全く考えていない。「これはこの作品のテーマだから」とか「こういう結果だからこれがテーマです」というのは出したくない。作品は舞台に上げた時点で私だけのものではなくなるので、お客さんが感じ取ってくださったことがその作品のテーマになると思っています。それぞれいろんなことが見えるものを創ることが重要なのであって、何か1つの目標のため、例えば今回でいえば「powerlessness」ということにあまり重心を置きたくないんです。それに対して感じることはそれぞれ違うだろうし、参加者全員の価値観を1つにまとめようというつもりはない。作品を創る上でも何かを押し付ける、みんなこれはわかってね、みたいなものを用意するのは、私は一番良くないことだと思っている。たとえはっきりしたストーリーを持っていたとしてもね。
 

プロセスが重要だというのもその辺りですよね。
 
ショーイングするから結果論になるんじゃなくて、ショーイングすることで次につながる。初日のショーイングが終わってもまだ翌日があるし、それが終わったら今度はどうなっていくんだろう、ってどんどん次のプロセスになっていくといい。安定している場所に身を置かないことが大切です。
 

今回の企画について、参加者にはどんなことを要求しますか。
 

まだ考えてないです。彼らに会ってから考えたいです。今回は先着順に応募を終了させていただいたし、どんな方達が参加者なのか全くわからないですが、ワクワクします。ワクワクドキドキは大切よね。そめやさんには度々国内での創作の際に身近にいてもらって、そのプロセスを絵として残してもらってきました。そういう意味であなたも大切な参加者です。今回もこうして側にいてもらえるのは心強いことです。今回はどんな絵を描いてくれるか、楽しみにしていますね。
日本は衆議院解散選挙前日、前々日のショーイング、これからどうなるのかわからない米朝問題…色々とありますが、そういう意味でもこのPowerlessnessは面白くなりそうです。
 
残るものをつくる利点は、私の生き死に関係なく、誰かに手を振ったり声をかけることができるところだと思っています。担当する当日パンフレットで、どんなクリエーションがおこなわれていたかをお伝えできるといいな。今日はありがとうございました。 (了)

 

[1] アフリカ内戦の少年兵を題材にした小説”Beast of no nation”をテーマとする、俳優ベンヤミン・ヴォルドンク、振付家アラン・プラテルとの共作。2007年ブリュッセル初演、2010年にさいたま彩の国芸術劇場、伊丹アイホールにて上演。


[2] https://fumiyoikeda.wordpress.com/2013/04/01/%E7%9B%B8%E6%A3%92/#respond


[3]  ダンサーの畦地亜耶加、川合ロン、木原浩太とパーカッショニストの加藤訓子を招いてのトライアウトプロジェクト。池田がダイレクションを務める。2014年、2015年にアーキタンツ、2016年象の鼻テラスにて上演。


[4] 「記憶」をテーマとするティム・エッチェルスとの共作。2010年ブリュッセル初演、2012年にKAAT神奈川芸術劇場にて上演。

 

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 池田 扶美代 (いけだ ふみよ)
1979年、モーリス・ベジャールのムードラ(ブリュッセル)に入学。同校でアンヌ・テレサ・デゥ・ケースマイケルと出会い、1983年にローザスを結成。以来、2008年までほぼ全ての作品の創作に携わり出演する。ローザスの多くの映画やビデオ作品にも参加し、ジャンルを超えて活動を広げる。
2007年以降は自身の作品も創作。アラン・プラテルとベンヤミン・ヴォルドンクと共に創った「ナインフィンガー」2009年イギリスの演出家ティム・エッチェルスと共に創った「in pieces」そしてニューヨークの演劇グループ、ネイチャー・シアター・オブ・オクラホマと「Life&Times Episode2」を発表。2013年山田うんと「amness」を発表。2016年谷崎潤一郎の「鍵」をベルギーの演出家ジョス・ドュ・パウと発表。2017年ICTUSの生演奏でMorton Feldmanの「Piano&String Quartet」を発表。現在はローザスの初期作品のリハーサルディレクターを務める傍、自身の振付作品を発表、演劇の作品にも出演、振付を担当している。

 

 

そめや ふにむ
1991年12月2日生まれ。日本大学芸術学部卒業。横浜国立大学都市イノベーション学府博士課程前期修了終了。2012年から企画制作として演劇、ダンスなどの公演、美術プロジェクトに携わる。

 

 

 

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