アフォーダンスの効用(ききめ) 白井剛「ダンスワークショップ」インタビュー

空間と繊細に交感するダンス表現で高い評価を受けている振付家、白井剛さんを講師としてお招きし、「ダンスワークショップ」を行ないます。ワークショップの内容を中心にお話を伺いました。

取材・文:吉田拓

 

―白井さんは、もともとアフォーダンスについてご存知で、モノとの関わりが深い身体表現をするようになられたのでしょうか?それとも結果的にアフォーダンスを含んだような表現になっていったのでしょうか?

 

言葉としては聞いたことがあって少しは知っていましたが、多分その前からモノを使って踊っていたとは思います。アフォーダンスに関する本をしっかりと読んだり、具体的に自分なりのイメージができてきたのは、この企画に関わってからのことですね。

 

僕が作品でモノを使うことが多くなった理由ですが、自分の踊りについて説明する時に「後手にまわる」と言うことがあります。自分から体を動かして何かを表すのではなくて、先に何かがあって、それに対してどうするかと考え始めた時に、やっとどう動きたいかが自分で分かる、という感覚が僕の中ではありまして。「動く」と「動かされる」の中間、と言いますか。

 

人前で踊るということは何かしら体でアウトプットする必要がありますが、個人的にどうしても「自己表現」という言葉の前でつまずいてしまう。そのことに限界を感じていたということもありますし、そもそも踊るという表現方法は、一歩間違えばナルシスティックに陥って、他人から見ると押し付けがましい気持ちの悪いものになってしまい易い。そのナルシシズムとのせめぎ合いや危険性は、己の体を素材として扱うダンサーの宿命でもあり、面白いところでもあるのですが、そのことをあまり意識し過ぎると動くのが怖くなってしまいます。

 

しかし、何かに触れてみたり体に乗せてみたり、何かが置いてあって、そこに向かってどう歩くかといったことを考えると、そこに体と行為の可能性が見えて来て、素直に、怖がらずに動けるというところが僕にはあります。「考える」と言いましたがその状態は、意識と無意識を両方働かせながら探す、モノと体の必然性と偶然性の中で気がつく、拾って辿って紡いでいく、という感じでしょうか。

 

もちろん、考える間も無く体が先に動いてしまう、ということもあるのですが、そういう場合でも後でよくよく考えてみると、はっきり説明はできないけれど、何かしらそうさせる要因のようなものや感覚を見つけることができますね。それを捉えて再現可能にすることが「振付けを作る」ということのようにも思います。

 

 

―僕はダンスをしていると、普段の自分と、踊る自分との境目を強く感じることがあります。しかし、白井さんのダンスを見ていると、モノを使うことは、その境目をスムーズに乗り越えるためのきっかけになっているように感じます。

 

そうですね。人前で踊ることは自分にとってすごく怖いことで、それは今も変わらず、というか益々増している感じもしますが、怖いからこそやってしまいたくて、かつてダンスなんか始めた、という面もあるとは思います。

ダンスや作品でモノをよく使うようになったのは、その怖さをなんとか回避して自我とうまくつきあって自由になる為のステップだったのかもしれません。

 

それから、演出的な話になりますが、モノを使うことは観客とのあいだで体感を共有するための糸口にもなるのかなと思います。全くモノを介さずに、身体一つで共感を得られるというのは、ダンス表現としてはとても理想的なことではあるのですが。

 

踊り手の体感や、ある動きが生まれた理由、どうしてそのように動き始めるのかという動機の部分が、モノを使うことで見えやすくなることがあります。言葉やシチュエーションで説明する代わりに、日常的に誰もが経験のあるモノを提示して、観客と踊り手の間に置いておく。手掛かりとして少しでもその辺りの体感を共有できると、観客も作品に対して、安心して入っていき易くなるのではないでしょうか。

 

もう少し噛み砕いて考えてみると、踊り手と観客、両者の身体の間にモノを置くと、そこに三角関係ができます。2点よりも3点の方が転がりやすい。転がってほしいのは、感覚と思考です。

 

第三者としてのモノが介在することで、踊る側と観る側、どちらもそれに対して一旦センサーを働かせて受動的になる必要と、よりはっきりと深く確かめたり考えたりするために、体や頭を働かせてアプローチする、能動的になる必要が生まれます。

踊る側も観る側も、受動的にも能動的にもなることを促されて、両者がそれぞれの位置から客観的に主観的にそれと対峙する。もの言わぬモノを前に、両者が対等になる。そうすると、その場に対話が成立し易くなる、ということかなと思います。

もはや、そこに介在させるのは、物体としてのモノでなくても、テーマや言葉でもいいわけですが。

 

ダンスを独白ではなく対話にしたい。せめて対話の提案でありたい、と思います。

ただ、ここで自分がイメージする「対話」というのは、踊り手と観客が直接対話をする、というよりは、踊る側も観る側もそれぞれがそれぞれに、個として何かと対話をしていて、個の身体それぞれの孤独な対話が、その場のそこかしこで囁かれ、プクプクと醗酵しているような、そんな場を醸造するような、そんなイメージです。なかなか説明が難しいですが、、。作品はそれを促進する触媒みたいな。そこに酵母を一摘み、、温度や湿度を調整して、、たまにかき混ぜて、、。

 

そこには、踊り手と観客、二者のあいだの「共感」を基にした伝わり方とはまた少し違った、もう少し風通しのいい場が生まれる可能性があるんじゃないかな、とも想像しています。

つまり、ダンサーが身体の主観を元につくった踊りを披露し、観客がそれを客観的に見ていくうちに、次第に本人の主観と結びついていく、という演者と観客のキャッチボールのような二次元的な「共感」関係ではなく、それぞれの主観と客観がその場で立体的に交錯する「交感」関係といいますか、その先の「共存」、と言いますか、、。

願わくば、さらにその先で、それぞれの感覚と想像が乱反射して、その場を超えて記憶や外や先の世界にも飛び火していけたら、と。

 

―大学の工学部でデザインを勉強されていた経験は、モノを使って踊ることに繋がっているのですか?

 

大学のデザイン科、正確には「工業意匠学科」という古風な名前のところでしたが、そこで勉強したことで、一番今に繋がっていると思うのは、アイデアやイメージを形にしていく過程での方法ですね。

 

例えば「夏/summer」をコンセプトにした「腕時計」をデザインするとします。まず最初に「夏/summer」で思い浮かぶことを書き出していく。「海」「青」「夏休み」「vacation」「セミ」「スイカ」「ビーチボール」「汗」「麦わら帽子」「熱中症」「40℃」「夏風邪」「異常気象」「台風」「太陽」「かき氷」、、。連想される言葉を、脱線しながらもどんどん書き出してみる。それから、出てきた言葉同士を色々組み合わせてみる。そうすると発想が膨らみながら段々イメージが整理されていく。そうして出てきたイメージを選択して、ターゲット層も考慮しながら、腕時計本体の形状や細かなディテール、リストバンドの素材や太さ、文字盤のフォントや色、量感、質感、といったデザインに置き換えて具現化していく。

 

コンセプトやアイデアをどう広げていくか。どうまとめていくか。ダンス作品を作る時も、最初は漠然としたイメージが浮遊している中で、ふと思い付いた動きの短いフレーズや、メモした印象的な言葉、道具のアイデアや、音のイメージなど、初めはバラバラだったものを並べたり重ねたり結びつけたりしていく内に、段々と振付やシーンらしきものが見えてきて、それらを並び替えたり混ぜ込んだりしながら全体の時系列が生まれてきます。

 

 

―どうして工業意匠学科に入られたのですか?

 

アイデアを考えたりモノを作ったりできる仕事ということで、工業意匠学科を選んだのですが、入ってみたら、自分にはそもそも物欲や、モノに対する執着やこだわりがあまりないことが分かりました。

 

 

―大学に入ってから気付かれたのですね(笑)。

 

入ってから気付きました(笑)。だから、例えば課題で「カレンダーをデザインしなさい」と言われても、「どんなカレンダーが部屋にあったら嬉しいか」とか、自分が欲しいと思うビジュアル的なイメージとか、なかなかそういう方向には発想がいきませんでした。どういうモノが好きか嫌いか、自分でもよく分からなかった。いまでも買い物が苦手です(笑)。デザイナーというのは本人の趣味趣向で創造する仕事ではありませんが、でも学科の友人たちを見ていると、車やバイクが好き、インテリアや雑貨が好き、フォント好きが高じてマニアックな域の人とか、やっぱり本当にそれが好きで自分でも作りたいと思っている人たちには、知識や発想も、意欲も叶わないなと感じました。

 

実際にカレンダーの課題があった時には、僕はまず「カレンダーとは何か?」と考え始めました。直感的に思いつかないので、考え込むうちに根本的なところに疑問がいってしまう。そして、「月日が記録されたもの」というのがその時の結論。あたりまえですが、、。他の皆は、文字や紙の形や色を工夫したり、木やアクリル版など紙以外の素材を取り入れたり、曜日や数字や写真などグラフィックを入れ替えて季節の変化を楽しめるものや、立体型のカレンダーなど、素敵なカレンダーを提案していましたが、僕はなかなか思いつかず、、。「どうやったら月日を記録できるか?」とまた考えはじめ、それが「記録って?」になり、「記録に必要なものは?」になり、、。

 

最終的に「二つの素材があれば何かを記録することができる。」というところに落ち着きました。カレンダーの課題だったはずが、この時点で「記録についての考察」に置き換わってしまっていますが(笑)。例えば「地面」と「石」があれば、石を並べて太陽が何回登ったか記録できる、とか。洞窟や牢屋の「壁」と石や釘やフォークなど「引っかき傷をつけられる何か」があれば、図形や文字や絵で何らかの記録ができる、とか。二つあれば「キャベツに楊枝を刺す」でも「鉄板と泥」でもいい。結局、「何でもよいから二つの素材があればよい。」というコンセプトだけを提示しました。一応、製作物の提出も必要だったので、一例として、購買で見つけた竹ひごとタコ糸を買ってきて「竹ひごを斜めに交差させて編んだグリットに、タコ糸で結び目をつける」というサンプルを作って、たしか「結*日」とかなんとか名前をつけて、「月日や曜日の印をどこにどう結び付けるかは、使う人がご自由に。」とプレゼンしました。

 

 

―使い方はお任せしてしまうんですね(笑)

 

当時は「二つのものがあれば記録ができる。」ということで自分的には「解決した!」と満足してしまっていたので(カレンダーどこいった !?)、どこにどう結び目を付けると月日や曜日が分かり易いか、とかまで考えるのが面倒くさくなってたんだと思います。

なんかずれてるな~とは思いながらも、、(笑)。

 

 

―でも、もしも今、実際に舞台上で白井さんが石を置き始めたりしても、全然不自然じゃないですよね。その頃から変わらない部分があるのでしょうか。

 

発想の傾向はあんまり変わってないかもしれませんね(笑)。今思えば、1枚の紙に折り目をつけることで日付が記録できるとすれば、1つの素材でも記録はできるのかな?「肌に爪を押しつけて爪あとをつける」だったらそれは「肌と爪」の二つなのか、「体があれば」って考えて1つ?、モノを用意しなくていいからゼロ?、、、やっぱり変わってないみたい(笑)。学科の課題で、「肌に爪あとをつける」プレゼンをして、「これがカレンダーです。」っていう学生がいたら斬新でしたね。

 

 

―今回のワークショップでは、最初に原宿の街を観察して歩く、「スケッチ散歩」を実施する予定です。もともとはセノグラフィワークショップのみで実施する予定でしたが、ミーティングの席で白井さんが「ダンスワークショップでもやりたい」とご提案されました。どうしてでしょうか?

 

理由はいくつかありますね。まず、せっかく原宿という、ある意味で特殊な街でやるのだから、ということ。そして、外の日常的な生活空間を、アフォーダンスという視点を持って歩いてみると、世界がいつもと違って見えるんじゃないか、ということ。その感覚を得ることがワークショップの第一歩として良いかなと思いました。それから、杉山さんはご自身のワークショップや講義で「スケッチ散歩」をよく実施されているそうなので、ナビゲートして頂けるとダンスWSの参加者にとっても、良い体験になるのではないかと思いました。

 

 

―セノグラフィワークショップでは、舞台空間を創作する素材を集めて来ることが目的ですが、ダンスワークショップでは何をスケッチ散歩の目的とされますか?

杉山さんがインタビューで仰っていたように動作をスケッチするというのも面白いですし、気になったものがあったら写真を撮ってきてもらったり録音してきたり、何かしらのアクションをその場所で実際にやってみる、動画に撮ってみる、というような体験も良いかもしれません。

 

ある環境で見つけた行為、本人が意識的、無意識的にその場所を選んで、その姿勢で、その向きで行っていた行為の必然性を、異なる環境に置いてみる、というような発想も、ワークショップで試してみるかもしれません。例えば、原宿の街角で待ち合わせをしている人の立ち姿を詳細にトレースして、セノグラフィワークショップで作られた美術空間の中でやってみたらどうなるか?空間の中のどこで待ちたいか。環境が変わったことで本人の体感に違いはあるか。なにを待っているように見えるか。そもそも「待っている人」に見えるか。「待っている人」に見えるにはどうしたらいいか。

 

 

―スケッチ散歩の後のプログラムについて、伺いたいと思います。ミーティングではキーワードとして、「人間工学の反転」という言葉が出ていましたが、どのようなことなのでしょうか?

例えばスプーンは、人が手に持って使うために、手の形に合わせてデザインされています。持ち手の形状や、柄の部分と掬う部分の重さのバランスなど、良いスプーンには手にしっくりくる適度な重さもあって、やっぱり使い心地が良くできています。

 

デザインされた道具はそのように、人間の体の形や動作や感性に合うように作られています。デザインの「人間工学」的な側面。椅子や、自動車などもそうですね。その発想を一度反転させて、あえてモノの形の方に体を合わせてみる。そうすると、モノに接する体の形や部位、全身の位置やモノに対する距離も変わってきますし、 動かし方も変わります。また、そのモノ自体の在りようも違って見えてきます。少し前にその辺りにフォーカスした小作品のタイトルを考えていた時に「人間工学の反転」や「逆人間工学」「inverted ergonomics」という言葉が浮かびました。

 

モノと体の「形」、フォルムについていうと、例えば、自動車のハンドルは手で握るものですが、手で握る以外の接し方や、ハンドルの形状に合う体の他の部位を探してみます。そうすると「手で握って支持したり回して操作する」為に作られた「ハンドル」というモノの中に、人知れず元々備わっていた別の可能性が見えてこないでしょうか。また、ハンドルに接する体のいろんな場所を探して体勢を変えているうちに、「ドライバー座席」という限られた空間の新しい可能性も見つかるかもしれません。

 

犬や猫やその他の生き物、例えば庭や納屋に迷いこんだ小さなカエルやトカゲなど、動物はヒトがデザインしたモノの意図された使い方を知らないので、思わぬところに居心地のいい場所を見つけて、思わぬ体勢で休んでいたりすることがあります。植物も人工物をうまく利用して体を支えたり、絡まって伸びたりしていることがある。そういう様子を見つけると、その発想に驚かされたりしますね。写真に撮って人に見せたくなる。

 

でも考えてみれば、人間も人工物に囲まれた生活をする前は、お尻を据えて快適な木の幹を見つけてそれを椅子にし、寝転がって心地良く雨風がしのげる場所を寝床にし、手に持ちやすく潰したり切ったりできる石を見つけてハンマーやナイフにして、それをより良くするために選んだり集めたり、次第に加工するようになったりしていったんだろうと思うと、環境やモノの中に体の場所を見つけるという発想、僕が「逆人間工学」といってみたような発想は、人間が道具を作る生物になる以前から備わっている、ごく自然な営みなんだと思います。この事はすごくアフォーダンス的だなと思っています。

 

また、モノと体の「動き」、ムーブメントについていうと、例えば、手の甲の上に乗せたスプーンを落とさないように、できるだけ素早く大きく上下左右に動かそうとした場合、手から動くと急激な加速にスプーンがついてこられず、落ちてしまいます。まずは手の甲の位置をあまり動かさないようにしながら、手から遠い部分、胴体や足腰の方から動かします。その場に留まろうとするスプーンの小さな質量を感じとりながら、関節をやわらかく使って足腰や胴体から始まった移動速度を肩や肘や手首に順に伝えていって、最後に手が移動するように動かします。そうすると、スプーンが体の動きについてきてくれて、手の甲から落ちません。減速して止まる場合も同様に。スプーンの慣性を全身で吸収する。スプーンを無視して勝手に動くことはできないので、スプーンの形や重さやバランス、接触点の滑りやすさなど、その特性を体感で読み取って合わせてやる必要があります。これを「スプーンに聴く」と言ったりします。

 

 

ーモノと体を探っていくと奥が深そうですね。

 

そうですね。話が少し戻りますが、モノと踊ることは僕にとって、道具を扱う職人さんやミュージシャンの身体性に対する憧れや嫉妬のようなものとも関係しているかなと思います。よい音楽を奏でるための身体。うまい刺身を造るための身体。数ミクロンの精密さで加工し、美しい木目を削り出すための身体。スポーツ選手や武術家なんかもそうですね。記録を更新したり、相手に勝つための身体。

 

彼らの身体はそれ自体を人に見せることが最終目的ではありませんが、その所作や佇まいには説得力と存在感があって、目を奪われる。かっこいい。例えば包丁や楽器など、そのなかでも特にこだわりを持って丁寧に作られた「よい道具」は、見た目も値段も、使い心地や性能にも差がでると思いますが、その道具の能力を充分に引き出すためには、その特性を感じとって、体を合わせ、扱えるだけの身体的な技量が使う側にも要求されるんだと思います。楽器や包丁や鉋、刀やボールやラケットなど、扱う道具に何年も何十年も触れ続け、対話を重ねた結果、機能的で効率的で、臨機応変、自由自在にもなれる美しい姿勢や動作を身に付ける。

 

身体の所作それ自体の美しさを目的としていないのに、だからこそ美しく見える身体。「憧れや嫉妬」といったのは、彼らのそんな身体に我々ダンサーはどう拮抗できるのか、というところで。まあ、演奏する姿があまりカッコよくないミュージシャンなんかもいますけどね。でもそういう人の演奏は音も素敵じゃなかったりする気もする。その差はなんだろう?

 

 

ーワークショップではモノと動くことが中心になりそうですか?

 

いいえ、今回はそこだけでは収まらないかと。

実際、スプーンを1つ体にのせて動くというようなことも、じっくり深めていくとそこには尽きない面白さがあって、例えば1 ヵ月くらい続けていると確実に体が変わってきます。でも、モノに直に触れた状態だけだと発想の限界もありますし、それだけを突き詰めてバリエーションを極めていこうとすると、ジャグリングや曲芸のように「どう上手く巧みに扱うか」が目的になってしまいやすい。そうではなく、そのモノとの間にどういう感覚や関係性が潜んでいるかというところを探索したい。「モノ」から「環境」へ、視野を広げていきたいですね。

 

そのために、「モノ」を「身体が対峙する1つの環境」と考えて、モノから距離をとったり、無くしていくことも大事だと思っています。視野を広げれば、そこには壁や天井や床、空気や光など、周囲を包んだり支えたりしているモノや、それから、自分の「体」というモノもそこに在るわけですから。

 

参加者それぞれになにかを持ち寄ってもらって、それを持って動いてみるようなことも導入としてやってみるかと思いますが、そのモノ達を空間に配置して離れたところからただただ眺めてみたり、モノから少し離れた傍らに自分の体が在るとしたら、どういう体の形や質感や動きが発想されるかなど、そういったアプローチの仕方も段階的に提案していくと思います。

 

例えば、1つのグラスがあったとして、手を3cm 離れたところに置いてみたときと、10 cm のときとでは、体感も見える印象も微妙に異なります。さらに、1m、2m、10 mと離れてみると、手だけでなく全身の意識も変わってくるかもしれません。距離だけでなく、手の形や体の姿勢、角度を少し変えたり、視線や意識の方向や強度をコントロールしてみたりすると、グラスと体の触覚のあいだで緊張関係やベクトルが変わるので、そこから次に動く場合の速度や方向性も変わってくるかと思います。

 

さらに、例えば先ほどのグラスとの距離の間に見つけた「これだ!」という手の形や感覚を、サイズも素材も異なる舞台美術に対してやってみたらどうか。最初にガラス製のグラスに対したときの体感や印象をなんとか再現するために、形や意識を探りなおしてみる、という試みも面白いかもしれません。

 

ある環境における、身体の形や動きの可能性。ある身体を、別の環境に置いたときの体感や見え方の違い。その辺りを探索しつつ、身体と空間に対する感性を開いて、練っていってもらいながら、その先に進んでいけたらと考えています。

 

 

―それではダンス的な体の感覚を探るということもやりつつ、演出的な感覚や見え方も探っていくのでしょうか?

 

アフォーダンスについての考え方に触れていると、客観と主観の間には、明確な境界線なんてないんじゃないか、外の世界と自分の体、その両方を含めた存在と行為の変遷、意識と無意識の運動自体が「身体」であり「世界」なんじゃないか、というような問いを投げかけられます。なので今回は、体の内側の感覚を探る視点と、外から見てそれがどう見えるかという、いわゆる演出的な視点との間の境目も、見つめているうちにだんだん溶けて見失っていくような、そんなところに皆さんと迷い込んでいけたらいいなと、思っているのですが。

 

 

―身体と環境との関係性を探るほかに、ワークショッププログラムでお考えのことはございますか?

 

そうですね、実際にその場にある環境以外に、イメージの問題も関係してくると思います。イメージというのは内的な環境ともいえるかと思います。例えば、体のある1つの形や動きを「サンサンと照りつける真夏の太陽の下で」とイメージしてやったときと「キンキンに冷えた真冬の凍った湖の上で」とイメージしたときとでは、感じ方も動き方も変わってきます。その違いは、もしかしたら外側から見てもはっきりと判別できないかもしれません。しかし、何かはっきりとしたイメージを持つと、そこには見えない力、体を包む説得力のようなものが生まれて、それが存在感にも繋がっていくと思います。動いている本人にとっての充実感や、次の動きへの判断も変わってきます。

 

それから、イメージというのは、本人が感じている内側のイメージもあるけれども、外から見た時にそれがどう見えるか、というイメージもあって。ある動きを見て、単純な例えですが「海中でワカメが揺れているように見えた」と言う人もいれば、「なんだかわからないけど面白いなこの感じ」と見てもらえる可能性もある。イメージといっても、具体的な何かを連想するイメージかもしれないし、質感や擬音のようなイメージかもしれない。言葉が拒絶されるようなイメージの捉え方もある。見る側がそれぞれの感じ方で捉えるというのも、ダンス的なものの見方の一つではあると思います。

 

 

―やはり、工業意匠学科で学ばれた制作プロセスというか、ブレインストーミング的に様々な組み合わせを試してみる。その中に身体感覚だったり、モノやイメージが関わって来るというようなことでしょうか。

 

そうですね。動きやイメージや、モノや音や言葉や、感覚や感情や思考や誤解や。言葉になるものもならないものも、その場に在るものも無いものも、体の内側からも外側からも、それぞれの経験と距離で、環境と身体が交感していける場にできたらいいなと思います。

 

 

―それでは、今回のワークショップに参加していただくアーティストの皆様について、お伺いしたいと思います。セノグラフィワークショップの講師、舞台美術家の杉山至さんとはダンス作品「静物画-still life」を共作されていますが、どのような方なのでしょうか。

 

杉山さんの美術は、それ単体でもとても面白くて美しいです。それがそこにあることで、空間性や時間性を感じる磁場が生まれてくるような。でも杉山さん自身は、そこに演者が入ってきてからを一番楽しんでいるように見えます。「自分が作った空間が、こんな使われ方するんだ!」って驚きながら。それは演じる側としてはとても嬉しいところです。美術だけで完結させない、そのことを舞台美術家自身が面白がっているということは、舞台上に立つ人間の身体の可能性を信頼して、期待して、広げてくれていて、そこがすごいと思います。

 

ご一緒した、あるコラボレーション企画の美術実験では、何十本ものトイレットペーパーのロールを高い天井から並べて吊って、滝のように垂れ下がっていたことがありました。裾はほんの少し床から浮いている。多分安上がりなんだけれど、実際大量に吊られていると、真っ白で、ピシッと見えて、フワッともしていて、なんだかとっても壮麗でした。物量のマジック。そのトイレットペーパーに霧吹きで水をかけるとまた表情が変わって、ぼそぼそっと、ぐずぐずになって千切れていったり。見てるだけでも面白いけれど、触ったり関わってみたくなる。離れた距離からも美術が身体に仕掛けてくる。それでいてシンプルでさりげない。杉山さんはそういった、様々なアイデアを提案してくれました。大きな空間を扱う経験も豊富だと思うので、空間の活かし方や、あまり予算に頼らずに大きなスケールを構築する方法もいろいろご存知で。

 

それから素材や量感、モノの置き方の角度や方向性を繊細に工夫される。置いてある物が微妙に傾いていることもあります。客席から見ると整然としているのですが、実は微妙に傾けてある。椅子と机の高さが微妙にアンバランスだったりすることもありました。無意識に働きかけるような、静かだけれど落ち着き切らない不思議な歪みを湛えて、空間に運動性や流動性が生まれる。その場所の窓や柱の位置などによっても「こっち側の客席は中心から少しずらした方が、空間に流れが生まれる」とか、「こう置いてしまうと空間が滞ってしまう」とか。

 

スケールの大きいところと微細なところ、空間を動かす精錬された身体感覚とノウハウを持っていて、一緒に作品を創っていて楽しいです。その辺りは図面を引いたりしているだけでは、決してできないと思います。

 

 

―続いて、照明の岡野昌代さんについてお聞かせください。

 

岡野さんは、もともと演劇や音楽の方に多く携わっていたそうです。飴屋法水さんや80~90年代のアンダーグラウンドシーンのすごい人達とも付き合ってきたんだろうなと思います。最近は、お笑いライブの照明も手掛けているそうです。ダンスの照明を多くやるようになったのは比較的最近だそうで、出会った当初は、ダンスの照明の作り方と演劇の照明の作り方とで、全然違うのが面白いと仰っていました。演劇の照明にも色々あるとは思いますが、セリフを喋っている俳優の表情が観客にちゃんと見えることを第一に求められるのが、いわゆる一般的な演劇照明だったそうで、それがダンスだと、人が影になるような光が効果的だったり、人よりも空間に陰影をつけることで場を作ったり。照明機材も、いわゆる劇場照明以外のいろんな光源や配置の仕方を試しやすい。そういうところを楽しんでいるんじゃないかなと思います。

 

 

―何か他の照明家の方と、明りづくりで異なる部分はありますか?

 

そうですね。例えば、作品全体の流れや文脈を理解して自分なりに納得して汲み取ろうとしてくれるところとか。その辺は、光でもストーリーをしっかり紡いでいこうとする演劇的な経験からの向き合い方なのかもしれませんね。

 

クリエーションの初期の段階から積極的に時間を作って、稽古場に足を運んでくれます。一緒に作品を作ろうとしてくれる方ですね。踊りについても感想や意見を言ってくれたり、こちらからも「ここで座ってるのと立ってるの、どっちが良さそう?」と相談したり。やりたいことや内容が見えてくるまでは「ちょっと、まだよく分かんない。」と言われてしまうこともありますが(笑)。それもあって救われた自分の現場は、これまでに数知れず、です。

 

最初の頃は、こちらから照明の位置や展開を具体的にリクエストすることも多かったのですが、最近は、振付作業やクリエーションの様子を見てもらいながら、途中段階で一緒に実験してみたり、明かりと一緒に通してみた後にまた話し合ったりしながら進んでいきます。お互いに違和感がなければ、踊りも明かりもそれぞれ黙々と作業して、合わせて、またそれぞれ調整して。本番もそんな感じで、シーン毎の明かりも切り替わるタイミングも、ほとんどお任せになるようなことも多くなってきたかもしれません。

 

空間に対しても時間に対しても僕はけっこう細かい方だと思うのですが、踊っていて違和感なくやれているということは、こちらの動きや感覚を敏感に察知して汲み取って、ライブ感を持って光量やタイミングをオペレートしてくれているのだろうと思います。空間も時間も踊りも、光で豊かに後押ししてくれます。

 

 

―音響を担当される、音楽家のスカンクさんについて、お聞かせください。

 

兄貴、兄ちゃん、遊び仲間、って感じです(笑)。 頼りがいのある。一緒に呑んで楽しい。

 

もともとは『THECO - ザコ』と言う作品に誘ったのが、実際にご一緒した始まりだったかな。一緒にやってみたいと思ったミュージシャン達に声をかけて、一人のダンサー(自分)と七人の音楽家というフォーマットでバンドを組んだような作品でした。

 

まずは、それぞれのミュージシャンと僕とが1対1で作曲と振付作業を一緒にしました。作曲や演奏の手法をヒントに振付が生まれたり、ミュージシャンの体に奏法を振付けることで音楽が生まれたり、即興で合わせてみたり。色んなアイデアを一緒に探しながらできたシーンを、コンピレーションアルバムのように並べて、その合間で、組み合わせてみたいと思ったミュージシャン同士や、全員集合でまたスタジオに入って新しい曲を作ったり。

 

「ベタなハードコア・パンクみたいなのやりません?」と言って、高速で5秒くらい叫んで終わる曲を作ったり。ミュージシャン同士だけだと普段なかなかやらないような、例えばバンドごっこみたいなパロディ・ノリでもやっちゃえたりして、やってみると案外楽しかったりして、ミュージシャン達も楽しんでくれていました。

 

 

―スカンクさんと二人でパフォーマンスされることも多いですね。

 

そうですね。スカンクさんと『THECO』の時に作ったシーンが、単体でパフォーマンス的にも音楽的にも印象的でインパクトのあるものだったので、機会があるごとにまた誘ってもらったりして、そのシーンを元に30分くらいにしたり、新曲を作って1時間のパフォーマンスにしたり、毎回少しずつ変更を加えながら何度か。「ギターをたくさん天井からぶら下げてみよう。」とか「今回は自転車に二人乗りで登場しよう!」とか(笑) 。

 

 

―スカンクさんは、音楽だけをやっている人よりも、パフォーマンスに対して積極的で、懐が深い感じがしますよね。

 

思いつきのアイデアを言ったりしたときに、「それはなしだね」って基本的に言わない。何でもとりあえずやってみる。そうしないとアイデアって出て来ないからって。

 

国内の様々なグループやダンサーとのクリエーション、最近は海外からも多く声がかかって呼ばれているみたいですが、きっとどの現場でも自然と頼りにされる方なんだろうなと思います。音楽のみならず色んな方向に、自分の興味や考え、哲学や美学や楽しみ方を持っていて、作品や現地のそこに携わっている人達、全体と個々人をとても大事に、バランスと愛情と好奇心と責任感とノリを提供してくれます。

 

最近はインスタレーション作品の個展を開いたり、一人で密かに製作物を作ったり、個人の活動も活発に楽しんでいるみたいです。あと、ワインBarのバーテンダーも(笑)。

 

 

―現時点でショーケースについて考えていることはありますか?

 

そうですね、まだどうなるかわかりませんが、VACANTのギャラリースペースだけでなく階段や裏口などの環境も使えたらと考えています。それから、同時に開催されるセノグラフィー・ワークショップ・チームの展開次第でも、色んなアイデアが生まれてきそうですね。

 

最終的なショーイングでは、全部決まった振付や構成を練習してなぞるというよりは、事前に用意した動きとその場で見つかっていく形とをそれぞれが探求しつつ、でも形をなぞってはいけない、というような、 振付と即興の間で、どの瞬間にもどの断面でもアフォーダンスが発見される可能性が開かれているように、それぞれの身体も全体もなっていけたらいいなと、想像だけはしています。

 

ある程度交通整理は必要になるかとは思いますが、できるだけまとめてしまいたくないですね。

 

 

―ショーケースにはダンスワークショップ参加者と共に、白井さんにも出演をしていただきます。

 

そうですね、、。一般的に、ワークショップをナビゲートしたり、全体を見ながら演出をした人と、それ以外の参加者・出演者とが同時に立つような舞台の場合、後者の方が見せ方の意図をあまり持ち過ぎず比較的純粋にその場に立てるのに対して、前者の方は演者としての身体の純度を保つことが難しくなってしまって場が濁る危険性が高いなと、個人的な経験上思うところもあるので、僕が出ることで良くなるかどうかは分かりません。でも、今回はワークショップをナビゲートしつつ、それぞれの参加者に模索してもらいながら自分でも発見していきたいので、出演者の一人として自分でも充足感を得られるかどうかは、ワークショップの進め方にもかかってきそうですね。

 

 

―ワークショップにご参加いただく方に関して、何かお考えはありますか?

 

どんな人に参加して欲しいか、でしょうか?
どうだろう、、。 最終的にはショーイングで、自分の体を人前に置いてみる、という体験をしてもらうことになると思うので、そのことを楽しめそうでしたら、ダンサーや役者などの経験に限らず、いろんな視点を持った方に参加して欲しいと思いますね。

 

絵を描くのが好きとか、音楽の人とか、旅と建築が好きとか、経済学部です、とか、十代です、とか、二児の母です、とか、造園や畑仕事が好きです、とか、運動不足だけどがんばります、とか。最終的に体だけでなく、言葉や音やドローイングなんかを使う人がいてもいいと思います。

 

それから、観察したり、自分なりに考えたり、それをなんらかの形にしてみることが好きで、飽きずに細部を探求できる方。人の考えに耳を傾けたり、ときには自分の枠を跳びこえて、大胆にトライしてみることもできるといいですね。

 

アフォーダンスという観点からすると、その過程で、体だけでなく言葉や絵や音やそれ以外も、いろんなアプローチの仕方がありそうですし、実際に必要になると思います。また、そのほうが面白そう。それぞれ個人個人の世界の捉え方や、伝え方の違いからお互いに刺激を受けて、いろんな窓が見つかっていけたらいいなと思います。

 

あと、例えばダンサーさんだったら、意欲のある人はもちろん大歓迎ですが、ちょっと今煮詰まってます、っていうような方が参加してみるのもいいのかも。それなりに動けるし作ってみたりもしたいんだけど、これでいいんだろうかと、考えているような。


「アフォーダンス」は、自分の身体の存在感や可能性のしっぽを捕まえるヒントにもなるんじゃないかと、個人的には思います。例えばコンセプトやテーマに沿って作品を形にしたりする以前に、そこにその体がある、モノがある、言葉がある、音がある、空間がある、自分がいる、というだけで既に大きな事態で、そこには採りつくせない可能性や魅力が開かれているのだと思います。


それを体感で捉えて、環境にも他者にも自分自身の身体にも肯定することできれば、普段見落としていた、あるいは目を凝らし過ぎてかえって見えなくなっていた色んなところに気がついて、小さな発見をもっと面白がったり、地道な成果を喜ぶことができる。作ることや生きることを、もう少し軽やかに、充足して、やっていけたりするんじゃないかと思ったりします。おそらく僕自身がそうだといいなと願っているんですけれど。

 

「世界がある」「自分がいる」ということは、足がすくむほど不思議なことだ、と感じたりすることがあります。個人的には子供の頃の方が、そんなふうに急に世界との距離感がグラっとするような感覚に、ふと落ち入る瞬間が多かったかな。「自分」も「世界」も無かったほうが分かりやすいのに、と想像したり。でもやっぱりあるんだ、と思うと、急にベールを剥がされたような。目がくらんで、足元が宙に浮くような。命や存在の秘密にヒヤッと触れてしまったような。恐怖と畏怖とワクワクに身が震えるような。体の奥の遠くで宇宙が沸き立つような、、。そんな感覚からまた日常の景色に戻ってきたり。

 

感じ方は、ひとそれぞれかと思いますが、「アフォーダンス」はそんな身体や世界の窓を開いて、改めて気づかせてくれる、新鮮に出会いなおして肯定していく糸口を与えてくれるようなテーマだと思います。ふるってご参加いただきたい。
 

 

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白井剛さんへのインタビューは以上です。最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。ダンスワークショップとセノグラフィワークショップの参加者募集は終了いたしました。現在はショーケース&トーク(11/2.3開催)のご予約を受付中でございます。詳細は「アフォーダンスの効用」WEB ページをご覧くださいませ。

https://www.vacant.vc/single-post/affordance

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白井剛(しらい・つよし)

大学時代、工学部にてデザインを学びながら並行してダンス・パフォーマンス・映像等の活動を始める。1998年「study of live works発条ト(ばねと)」を設立。2000年、演出/振付/映像/出演した作品がコンテンポラリーダンスの振付家の国際的登竜門として知られるフランスのバニョレ国際振付賞を受賞。以後国内外にて作品を製作・発表。2006年より活動単位「AbsT」を設定し作品ごとに形態を変えながら活動を行う。

物質・音・光・言葉など様々な対象と交感する視点と独自の身体性、精緻な時間/空間構成が評価され、音楽家やメディアアーティストなど異分野とのコラボレーション製作や、ダンサーとしての客演も企画される。

[受賞歴]

バニョレ国際振付賞(’00)、舞踊批評家協会賞('05)、トヨタコレオグラフィーアワード次代を担う振付家賞(’06)、日本ダンスフォーラム賞(’06/’11)、文化庁メディア芸術祭アート部門審査委員会推薦作品選出(’11)、シンガポール“Straits Times” 紙が選ぶ「2015 Best Arts」ダンス部門選出(’15)。

 

 

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