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"川の流れ、サヨナラの別れ。"


『風景でいよう』 #9

 

 時代に伴う様々な進歩は、コミュニケーションの方法と価値観を大きく変化させた。「邂逅」は何だか予定調和的になり、「別離」はその後の何らかのやり取りを前提にした、薄味なものになってしまった。次いつ会えるとも知れぬ相手に、なにか言い残さねばという切迫感もなく、照れ隠しに茶を濁すことに終始してしまう。別れの際に交わすべき、素敵な言葉を僕らは持っているというのに。


「サヨナラ」を文字通りに訳すと、「そうならなければならないなら」という意味だという。これまでに耳にした別れの言葉のうちで、このようにうつくしい言葉をわたしは知らない。(中略)「サヨナラ」は言いすぎもしなければ、言い足りなくもない。それは事実をあるがままに受け入れている。人生の理解のすべてがその四音のうちにこもっている。ひそかにくすぶっているものを含めて、すべての感情がそのうちに埋み火のようにこもっているが、それ自体は何も語らない。言葉にしないGood-byであり、心をこめて手を握る暖かさなのだー「サヨナラ」は。

(『翼よ、北に』アン・モロー・リンドバーグ)



 別れが不可避の運命であり、その大きな岐路に立ったときに湧き上がる様々な感情を経て、やはり自分には抗うことが出来ないのだと静かに理解する。「そうならなければならない」別れとは、そうなるべくして出会ったことに始まり、それらを横断する一本の線とは結局人生という大きな川なのだ。


コノサカヅキヲ受ケテクレ

ドウゾナミナミツガシテオクレ

ハナニアラシノタトヘモアルゾ

「サヨナラ」ダケガ人生ダ

(『厄除け詩集』井伏鱒二)


 中国の詩人の句を訳したこの詩は、「さよなら」を肯定する鮮やかな人生賛歌だ。ひとつの別れが川の流れを堰き止めることはなく、次の出会いにつながっていくという希望がそこに見える。日々のあらゆる瞬間は「さよなら」に満ちている。だからこそ、いかに多くの事象と健やかに「さよなら」が出来るかということで、川がつくりあげる風景は大きく変化していく。別れとは誰しも抗いたくなるもので、だからこそそれを回避するための方法がここまで進化したとも言える。ただそれを〝浮き袋〟にして川の流れに逆らうことを続ければ、徐々に鈍くなるその身体は自由が利かず川の底に沈むことになる。いつの間にか溜め込んでしまっている「さよなら」を、胸張って吐き出そう。それでは皆さん、さよなら、さよなら。


(初出:「POPEYE」 2013 FEBRUARY Issue790)

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