”タレルの家、意識の園。”


『風景でいよう』 #3

 

 夕暮れの光、冬の光、オランダの光、一九八五年の光。場所や環境が違えば、光は全く違った姿を見せる。その瞬間にしか出会えない光があって、それをどうにかとらえようとするのが写真という行為なのだろうが、ただ光ということだけでは言い足りぬ何かがそこにはあって、それを探るためには、写真が生まれた時点にまで遡る必要があった。



一八三九年一月三十一日、イギリスのケンブリッジでW・H・F・タルボットがネガ・ポジ・プロセスによる写真術を完成させたが、この時、タルボットは自らの発明を「影をとめる美術」と名付けた。(『アメリカンイメージ』伊藤俊治)



 写真が「とめる」「影」とは一体何なのだろう。おぼろげに影が伸びる先を辿っていくと、直島にあるジェームズ・タレルの作品『Backside of the Moon』で体感した「闇」の存在に辿り着いた。その作品のために建てられた『南寺』の内部空間を覆う、肌にまとわりつくように濃密な闇に、はじめは当惑した。光との断絶によって先ず実感したのは、普段見慣れた自分の肉体は、実は光によって肉付けされ、輪郭を得ているものなのだということ。光なき場所では、肉体は無に等しい存在だった。それでは、「闇」とは果たして何なのか。肉体が後退し、代わりにやって来たのは、澄み切った「意識」だった。肉体を抜け出した意識は、闇に染み出して、そこらじゅうに広がっていった。哲学者エマニュエル・レヴィナスが、不眠の夜の意識について『夜が目覚めている』と表したように、まさに闇が主体となって思考し始めるような、不思議な感覚だった。それはいわば、誰しもがそのカラダの内側に持っている「空間」の疑似体験で、自分が意識そのものにスッポリと覆われたような状態だった。

 光は肉体を支え、闇は意識を満たす。その両極からちょうど中間の場所に煙る影(silhouette)こそが、写真を撮る者自身の風景の投影であり、写真は見事なまでに、画面にそれを定着させるのだ。写真の誕生からおよそ一七〇年経ったいま、写真は「イメージ」に取って代わられようとしている。それは深淵な闇に身を浸す機会が、一様に足りていないからなのだろうか。真っ暗な洞窟で暮らしていたあの頃にまで、遡る必要があるのかもしれない。

(初出:「POPEYE」 2012 AUGUST Issue784)

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