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”『風景』と『景色』、記憶をめくる物語”


『風景でいよう』 #1

 

 「風景」ってなんだろう。先ずはそこからはじめてみよう。たとえば小高い丘の上にのぼって、見渡す目の前の「景色」。家に戻ってから、さっき見たものを思い出して、フワリと浮かび上がってくるのが「風景」なんじゃないかと思う。「景色」の或る部分を捕らえて、そこへ自分なりの風を吹きこむことで―止まっていた走馬燈の一枚の絵が、風を受けてゆっくりと動き出すように―それは「風景」へと変化していく。身体の外側には「景色」が、そして内側には「風景」が、果てしなく続いている。



 「思い出す」ことが滅法苦手な自分には、写真はなくてはならない存在だ。写真で切り取った「風景」は、密接に記憶とつながっていて、その写真を撮った時に自分がどんな場所に居て、どんな気持ちでいたのかを思い出させてくれる。時にはその場所の匂いを嗅ぐことだってある。この写真を撮った日に、川辺で夢中になって写真を撮っていたら、いつの間にか水かさが増していて、膝まで水に浸かりながら必死に橋まで戻った。濡れた足跡は家に帰るまで続いた。



 こうやって思い出す「風景」は、クリス・マルケルの映画『La jetée』('62)のように、連続写真のスライドショーみたいに淡々と流れていく。そこには自分を見下ろす、「超越的な目線」によって捉えられた、自分の姿が写っている。そしてそれは、その時に実際に自分が撮った写真と対になって、目の前に浮かび上がってくる。自分の目線、そして自分を見下ろす何者かの目線がひとつに結びついている。つまりは写真を撮ることで、写真によって撮られていたのだと気付く。




 そしてある日急に、自分は写真をパタリと撮らなくなる。自分自身がカメラになったつもりで、瞬きでシャッターを切っていた。その時は、撮ったつもりでも「撮られている」という、写真の呪いのようなチカラに抗おうとしていたのかもしれなかった。その呪縛から一旦解放され、周りにある様々な「景色」を眺めて、それを網膜/脳内に焼き付けようとした。けれども結果的に、その「景色」たちはどこにも定着することはなかった。



 そしていつしか、また写真を撮り始める。カメラを持たなかった期間が、カメラのファインダーという限定的な視界が与えてくれる、無限の可能性を裏付けしてくれたような感覚があった。肉眼では「景色」がヒリヒリと「景色」のまま漂っていたものが、ファインダーを覗くと、その先には全く別の「景色」が広がっていた。それは紛れもなく、自分だけの「風景」だった。


(初出:「POPEYE」 2012 JUNE Issue782)

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