top of page

"場所/現われ | A Place/Appearance"展インタビュー

牧口英樹 × 村上由鶴

 


被写体は真ん中に「ある」


―牧口さんの写真を拝見して、アニメや映画の背景画のように、人やキャラクターが活動するための場や背景だけがあるという感じがしました。テキストでは、「存在」という言葉をよく使っていらっしゃいますが、「不在」と言ってもよいのではないかと感じました。


牧口:「不在」というのは、「そこにあるべきものがない」と感じることですよね。つまりそこに何かが「ある」と認識していなければ、「ない」とは感じないはずです。僕は「ある」を写真に撮っています。でもそれはどこにも写っていません。なので「そこにあるべきものがない」という印象を受けるのだと思います。「不在」という感覚は正しいと思います。


いま目の前にはコップがありますが、この「コップがある」という状態に対して、僕らはコップという記号を見ているだけです。「ある」の部分については実感していません。それは僕たちが日常の中で生きているからです。けれど、時々その日常が取り払われて、「存在」が向こうから来ると感じることがあります。いわば、「ある」だけを感じるんです。そのことについてテキストでは「現われ」と表現しています。写真はその「現われ」を撮っています。


―その「現われ」の経験は、写真を撮り始めてから気づいたことなのでしょうか。それとも、そもそも先にそうした経験があったから写真を撮りはじめたのでしょうか。


「現われ」の経験自体は日常からありました。日々「存在」が「現われ」ているのを感じていました。それを捕まえるために写真を撮り始めたという感じです。撮り始めた頃は、自分が何を撮っているのか分かっていませんでした。ただそこにある何かを撮っていました。


―いま、牧口さんはこうしてご自身の作品の被写体を、「存在」や「現われ」と言語化されていますが、その過程で、もしかしてこれまでにいろんな言葉が出てきて、捨ててきたこともあったのではないかと思うのですが、以前はどのように自分の撮っているものを説明してきたのですか。


はじめは、「存在」とか「現われ」という言葉は使っていませんでした。自分でも何を撮ってるんだろう?って、ずっと考えていましたね。だから「空体」と名前をつけていた時もありました。空間の「空」に「体」です。「体」というのがふさわしいと感じるほど、自分にとっては生々しく見えていたから。以前、自分の作品を見た友達が「何もないんだけど、そこに粉をかけると形が出てきそう」って言ってくれたことがあって、その感想は自分の感覚に近いと思いました。


―それは面白い感想ですね。つまり、牧口さんのなかでははっきりと具体的な対象を撮影している感覚があるということなんですね。


自分の写真は、被写体が常に写真の真ん中にある状態です。画面の真ん中に「ある」を写しています。昔、展示に来てくれた方に「これは神社の起源と一緒だね」と言われことがありました。よく分からなかったのでどういうことか聞いたら、「神社っていうのは昔何もなかったところを拝んでいた。だけど何もなくて寂しいから、その周りに 4本の柱を立てて屋根を被せた、それが神社の始まりだよ」と簡単に説明してくれました。その話は写真行為そのものですよね。そこに枠をつけるという意味で。「あ、一緒だな」と思いました。





対象との適切な距離


―牧口さんの写真を見ていると、目に見えない対象を撮るために、何か厳密なルールを設けているように感じます。撮影の方法でいつも決めていることはありますか。


対象との距離、自身をどこに立たせるか、ということにはこだわっています。それから撮影は奥行や、臨場感、空気感が写ると感じる、中判のカメラを使っています。特に自分の作品の場合は、「存在」を写すために空間の奥行を写すことが重要です。


―対象との距離についてもう少しお聞きしたいです。


敢えて例えるなら「地球と向かい合える場所は地球の外にしかない」ということでしょうか。地球の全体を見ようと思った場合、それを見るための適切な距離が必要ですよね。自分を対象から引けば引くほど、眺めの大きさ、その単位がどんどん変わっていくので、 自分の位置が重要なんです。 自分の写真において被写体は常に同じです。その被写体を捉えるために、適切な位置を取ろうとするといつも同じ距離感になるんだと思います。


―同様の被写体を14年間撮り続けていらっしゃるということですが、その14年前に何かきっかけがあったのでしょうか?


自分の地元が札幌なんですが、小学生の頃から父の影響で歴史の好きな少年でした。でも歴史の教科書には地元のことがなかなか出てこなくて、疎外感みたいなものがずっとありました。やっと教科書の最後の方、明治時代になった辺りにようやく出てくるんです。高校生になって、学校に通う電車の外の風景を見ていても、「ここ、どこなんだろう」と漠然と不思議に思っていました。教科書に載っているような瓦屋根や竹林も見たことがなかった。どちらかと言えばヨーロッパで電車に乗っている時のほうが、妙な親近感、懐かしい感じがしました。

それが23歳の時、姉が結婚して使われなくなった実家の部屋のベッドに、なんとなく座って窓辺を見ていたら、そこにどこの国なのか特定できない風景を見出して、「そうか、(自分が育ってきた環境には)日本らしいものが希薄だったんだ。実家にすら(そういうものが)なかったんだ」と理解させられた瞬間があったんです。「これが自分なのか」と。感動しました。一瞬の間に過去の記憶がたくさん出てきて、自分の生い立ちを遡って理解したんです。そしてその事実を受け入れました。その出来事から世界の見え方が変わっていました。空間ばかり見えるようになっていたんです。



写真とドローイングの方法論


―展覧会のテキストに、「存在とは視覚的にどのような質感なのか」という言葉がありました。「質感」という言葉の意図について聞かせてください。


「質感」は、ドローイングの作品についての言葉です。質感とは、目に来る「強さ」のことで、材質とかタッチのことを言いたいわけではありません。「現われ」を描こうとしているのがドローイングで、「現れている」のを撮っているのが写真です。さっき、「コップがある」という文章を例にして話しましたが、ドローイングでは、そのコップではなく「ある」のほうを描こうとしています。その「ある」はコップに付随した現象なので、結局なにかにはくっついていないといけない。でも、その「何か」というものを「何か」のまま、できるだけ実体のない状態で「ある」を表現したい。その場合の最低限度の「何か」を描いたのが、このドローイングです。


―ドローイングはどのように描いているのでしょうか。


自分は頭の中にあるイメージを描くのではなくて、自分もどうなるか分からないものが見たいために、偶然という働きを使って描こうとしています。絵は自ら能動的に描き始めるのに、描いた途端に立場が反転して、受動的に描かされているように感じるんです。だから、その時に起こる偶然という力の下で、自分は何も考えないという姿勢で描くようになりました。


―ドローイングを描いている感覚と写真を撮る感覚に共通する点はありますか。


自分が受動体という立場である感覚は同じです。写真の場合は、待っている状態で歩き回ればいい。探さないし、何も考えないっていう状態です。ドローイングの場合も同じで、描きながら待っている状態。あと、感情を描かない、撮らないようにするという感覚もあって、結構抑制しています。感情を入れる必要がない、というよりも、むしろ感情を入れてしまうと遠ざかっていく感じがあります。


―「感情を入れない」というのは、例えば瞑想のような感覚でしょうか。


現在のドローイングの前段階として、縦の線だけを毎日描いている時期がありました。どこから始めてどこで終わるのか、全ての所作を決めた状態で毎日描いていました。写経みたいな感じで無感覚にとにかく手だけを動かすということをしていました。そしたら、このドローイングが突然生まれてきたんです。それがもう6年前。その時は本当に瞑想状態というか、ものすごく集中していました。多分今はもう、そんな集中力は出せないでしょうね。



―それは牧口さんにとって、ある種の儀式のようなものですか?


当時、柳宗悦とか、『弓と禅』(オイゲン・ヘリゲル)を読んでいて自分を手放していく方法論を知りました。陶芸家は、とにかく量を作るじゃないですか。良いとか悪いとか関係なく、量を作って数をこなすっていう、その方法を達成することによって初めて無作為になると。良いものを作ってやろうと思いもしないというか、1つ1つを大事にしない。自分も作りすぎて、もうどうでもよくなるという、自我の手放し方をやってみたんですよね。それまでは、そこまで自分を手放すみたいな発想がなくて、考えたことを実現させようとしていたんだと思うんです。写真の場合はすでに受動的にやっていたんですけど、絵に関してはその方法で描いていなかった。それでうまくいかない状況が4年ぐらい続いたんです。これじゃまずい、と思ったし、疲れてしまって、何も描けなくなった。そんな時に、自分に一番負担のない方法は何だろうって考えて、任せちゃうという方法でやってみようと。とにかくいっぱい作ってみて、「良いものを作ってやろう」なんて思わずに、毎日続けて、偶然の力によってたまたまできたものを受け入れる感じです。


―写真の方法論とドローイングの方法論に共通するところがあったということですね。


結果的に写真の方法論とそのドローイングの方法論が一緒だと気がつきました。すでに写真で分かっているはずだったんですけど、絵によって再確認しました。写真の風景は自分が作った風景ではないので、初めから受動体でいられますが、絵はやっぱり能動的に描き始めないといけないので、受動的になることの難しさがありました。受動的になることの良さは、意外なものが生まれてくることです。それは自分が能動的になって作ったものよりも、自分らしいものができ上がるし、より深い感動をもたらしてくれるんです。



〈Exhibition〉

牧口英樹 /Hideki Makiguchi

2023.08.26 Sat - 09.10 sun

at Vacant/Centre

 

村上由鶴(むらかみゆづ)

1991年、埼玉県出身。日本大学藝術学部写真学科助手を経て東京工業大学環境・社会理工学院 社会・人間科学コース博士後期課程在籍。日本写真芸術専門学校非常勤講師。公益財団法人東京都人権啓発センター非常勤専門員。

共著に『クリティカル・ワード ファッションスタディーズ』(フィルムアート社)。POPEYE Web「おとといまでのわたしのための写真論」、The Fashion Post「きょうのイメージ文化論」、幻冬舎plus「現代アートは本当にわからないのか?」を連載中。写真やアート、ファッションイメージに関する執筆や展覧会の企画を行う。専門は写真の美学。

Comments


______

bottom of page