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「にわにはない、ことのありか。」

行ってみたい庭がある。イギリス南東部のダンジェネスという村にある、映画監督デレク・ジャーマンの庭。今は亡き彼が、イギリス海峡を臨む海辺に建てた「Prospect Cottage」の周りに広がるその庭は、そこに散らばっているものが新たなかたちを与えられ、時間という波の流れを受け入れながら、やがて自然に還っていく、まるで波打ち際につくられた砂のお城のようだ。人間の作為と自然の淘汰の間に揺らめく「庭」という存在を丸ごと肯定するかのように、のびやかな姿をしている。その景色のほとんどは『Derek Jarman’s Garden』(Thames&Hudson)という本のなかで見渡せてしまう。それでも尚行ってみたいと思うのは、そこに「何があるか」を見るためではなく、そこに「何がないか」を感じ取りたいからだ。


幾千年来我等の祖先をみ来つた東洋文化の根底には、形なきものの形を見、声なきものの声を聞くと云った様なものが潜んで居るのではなからうか。我々の心は此の如きものを求めて已まない』(西田幾多郎「働くものから見るものへ」)


 その「見えず聞こえず」が息づく先に目を向け、耳を傾けることで、「ない」ことへと近づいていく。すると、声・形あるものを支えている「間」の存在に気付き始める。「間」という言葉が響かせるのは、「欠落」ではなく、それによって「満たされている」という感覚だ。そして世界は、その様相を変化させていく。


 『この世界はものだけによって成り立っているのではない(中略)別種の世界の現れかたがあることがわかってくる。そしてそういった世界の現れかたのことを、日本語では「こと」と呼んでいる。』(木村敏「時間と自己」)


 目の前に「ある」、「もの」のみに囚われない自由奔放な「時間」と「空間」に満ちた「こと」の世界が、すぐそこに広がっている。姿として現れる前の気配、朽ち落ちたあとの余韻。ものが存在するための必然的なが「間」には充満している。柵に囲われた場所だけが庭ではなく、庭そのものが風を、水を、生き物をつなぐ「間」となって拡散していく。ダンジェネスの海辺に彼が辿り着く遙か前からも、彼が亡くなって十五年以上経ったいまも、彼が描いた「庭」の風景は、全ての瞬間にその場所に宿っている。

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