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"遠くの知覚、無限の幽玄。"

#Scenic World, #essay

 時間と空間。それはあなたの内側にある。それは誰のものでもなく、あなた自身の存在と直結している。本来そのふたつがあなたを限定したり、規定したりすることはない。それは伸びたり縮んだり、あなた次第でその姿をダイナミックに変化させるからだ。だから、もし空間があなたを窮屈にさせるなら、もし時間があなたを急かすなら、そのときは目の前に在るはずの無限の奥行きに目を見開き、耳を澄ませて欲しい。


 「写真」を通した世界の見方について、「風景でいよう」と、ある写真家は言った。普段僕らが目にするあらゆるモノたちは既に「意味」を纏っていて、何かを目にした途端、それを即座に拾い上げて「理解」しようとしてしまう。それは生きていくうえでの条件反射のようなもので、それを意識的に抑えることは簡単ではない。ただ、その回路に「抵抗」を加えて、普段見えている世界をショートさせ、あらゆる意味を一旦無効化することで、そこにはモノの純粋な「かたち」が露出し、そのひとつひとつと自分のなかに芽生える生(き)の感覚とを結びつけることで、今まで見えていなかった彼らの姿を見ることが可能になる。その有効な抵抗手段としての写真が、あらゆる色も光も音も言葉も感触をも、意識が意味の衣を被せてしまう前に、意味が届かない深く遠い場所にまで写してしまうことで、それを無垢な「風景」へと変換させる。それは慎重な精査と操作を通して、外部の世界を「内側」へと活かすことである。「風景でいよう」とは、「自分にしかない」時間と空間の再発見と、「自分ではない何か」に対する探求を止めないための、ささやかだが心強い囁きなのだ。


 『たとえそれが、一握りの土くれであっても 良いものは、しっかりつかんで離してはいけない。たとえそれが、野原の一本の木であっても 信じるものは、しっかりつかんで離してはいけない。たとえそれが、地平の果てにあっても 君がなすべきことは、しっかりつかんで離してはいけない。たとえ手放すほうがやさしいときでも 人生は、しっかりつかんで離してはいけない。たとえわたしが、君から去っていったあとでも わたしの手をしっかりつかんで離してはいけない。』(『今日は死ぬのにもってこいの日』ナンシー・ウッド)


(初出:「POPEYE」 2013 MAY Issue793)

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